のびしろ
最近は、こんなところに?と思うような場所にも、
沢山カフェができています。
こんなところに?と思うような場所には、
そう思っても足を運びたくなるような、
プラスαの魅力や理由があります。
古民家を改装していたり、癒される自然があったり、
店主さんのこだわりがあったり。
(イメージであり、文章の内容とは関係ありません。↑こちらは、山奥の人気カフェ・豆岳珈琲さん。)
わざわざ行くだけの価値があるからこそ、何年も続いているのだと思います。
私は、お店を探すとき、必ず口コミの低い方も参考にします。
口コミの低い内容を見て、自分がさほど気にしないことなら、
良しとします。
反対に、全く悪い評価がない場合は、
その口コミの全体像をサラっと見て、
同じような文体だったり、実体験に基づくものでなかったり、
「友だちが良いって言ってました!」みたいな評価が多い時は、
かなり訝しんで検討します。
特にレビューの投稿者が、その店以外、どこにも評価してない場合は、
サクラの臭いがプンプンする。
細々と、広告や文章を生業にしていると、
なんか臭う?時があるからです。
そうやって、低いレビュー内容をみていると、時々、「愛想が悪い」が出てきます。
う~ん。これに関しては、高圧的でない限りはいいような・・・。
お金を払うだけの、【価値がある提供】をしてくれさえすれば、
過剰な愛想は期待しないからです。
ただ、そういった低いレビューに何と答えているかは、
・・・ちょっと恐々見てしまう。
返事の仕方で、なんとなくお店の姿勢が分かるからです。
売り言葉に買い言葉みたいに、喧嘩腰で返事をしている所は、
おっかないから、まず行きません。
(喧嘩腰じゃなくても、AIなの?ってくらい、機械的に返信してるのも怖い。)
もう、行く前から嫌だもん。
(クレーマー的なのはともかく)少しでもウチにケチつける奴は許せない!って。
どんなにこだわっていても、写真映えしても、
嫌だもん。ピリピリしてそう。
自信やプライドをもって、こだわることはいいけれど、
少しでも悪く言おうものなら、相手が悪い!ってスタンスは、
もう、なるべく近寄らない。
お金払って、緊張なんか買いたくない。
そして、【こんなに頑張っているのにケチをつける人間=敵】だと思い込む背景には、
どこか怯えも見える気がする。
本当に自信がある人というのは、どこか謙虚でもあるからです。
以前、体が動かなくなるまで、夢中でパンを焼いていた時期がありました。
OL時代、休みの度に、遠方(片道2時間)の山奥のパン屋さんまで手伝いがてら、見習いに行っていて、
そこの先生にも
「○○ちゃんは、アイデアはいいけど、手がね~」と言われるほど、
トロくて不器用。
練習しても、練習しても、なかなか上手くならない。
そんな時、大分市内のグロッケンというパン屋さんに行きました。
(現在、古国府から移転されて、錦町に。
ご実家の和菓子店【つるや】を継がれて、その一角に、【グロッケン】のパンコーナーがあります。
巨峰からとった天然酵母パンや、本格的なドイツパン、そして街のパン屋さんらしいパンまで、なんでもあります。
こちらのパン・オ・ノアや、パン・ド・フリュイは、もうたまらんです。)
なんとなく、パンの話になって、フランスパンもうまく作れたことがない旨を伝えました。
その時、そこの店主のおじさんが
「ぼくも、何十年も焼いてきて、これだ!って思えたのも、何回もないよ。
こうやって、商売してても、毎日、勉強!」
と言ってくれました。
中学生のころ、京都奈良に修学旅行に行く前に、美術の先生がしてくれた話を思い出します。
それは、「菩薩」さんの話でした。
菩薩さんも、いつか如来になりたいと勉強している。
自分も、勉強している身なんだけれど、
困っている人がいたら、手を差し伸べ、導いてくれる。
私にとって、そのおじさんの言葉は、菩薩さんの言葉だったのです。
もっと修業が足りない私を、見下すことなく、
自分も勉強中と笑ってくれたことは、どんなにありがたかったか。
いつか、目指すものにたどり着く自信がある人は、
今の力不足を笑わない。恥じない。
この世に、完璧なんてものがない以上、
今、足りないものは、
【見たくもない欠点】か、それとも【伸びしろ】か。
芸術家なら、自分のこだわりを【分かる人間】にだけ売ればいい。
でも、芸術とデザインは違う。
デザインに伴うのは、機能であり、
それの良し悪しは、
つくった本人ではなく、
使った人に委ねられる。
分かる人間にだけ、ではどこか独りよがりになる可能性もある。
芸術作品のように、自分の表現欲に重きを置くか、
あくまで使い手や客あってのものとして、精度をあげていくのか。
カフェにしろ、何の商売にしろ、
そこに使う人がいる以上、それは芸術ではなく、デザインであり、
そう言った意味でも、
こだわりをどう評価するかは、
残念ながら、他人に委ねられる。
芸術とデザインをくっきり分けることはできないけれど、
それでも、あのパン屋のおじさんのように、
みんなに喜んでもらえるよう、勉強して、さらに高みを目指していくのか、
周りは敵だらけと思い込むかは、人によるのかもしれない。
前者が見てるのは、お客であり、
後者が見てるのは、傷ついた自分のプライドとも言える。
見たくもない汚点を、見て受け止め、次につなげる勇気のある人。
その人は、きっと菩薩さん的であるのではと、
レビューを眺めながら、思うのでありました。
(そういう私は、とてもとても菩薩さん的ではないのだが。)