おやくにたつ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


「大人になったら、人の役に立つ仕事がしたい」

そう聞くたびに、ひねくれものの私は考えてしまう。

では、逆の「人の役に立たない仕事」ってなんなのか、と。


PTAの出事で、あるお母さんが仕事で来れないと聞いて、

「あのひと、そんなたいした仕事しよるわけや、ないんやろ?」
そう発したひとがいました。

彼女は、当時小学校の主幹教諭で、【良い先生】で有名な人でした。
バリバリに活躍されて、今は立派な校長先生になっておられます。

忙しい最中、自分だってこうして来ているのに!そう腹が立ったのかもしれません。
PTAの出事なんてめんどくさいですから、逃げてずるい!そう言いたかったのかもしれません。

・・・しかし、なんだろうな、このやるせない感じ。モヤモヤくる感じ。

自分の仕事に誇りを持つことと、貴賤をつけることは違う。

誰かが自負する【たいした仕事】【立派な仕事】を支えるために、
誰かが言うところの、【たいしたことない仕事】をしている人がたくさんいる。

取りざたされることもない、スポットライトも当たらない場所で、
縁の下で支える、目立たない仕事をする人がいる。

言い方をかえれば、

あなたが【たいしたことない】という、雑用をせずにすんでいるのは、
そういう仕事をしてくれる他者がいるからだ。

それを後々、何度も思い返しては、
あぁそうか、自分はそれでモヤっときたのかと反芻して、飲み込むことがあります。

パッと、言い返すタイミングも、勇気もなかったんだから、自分だって同じ穴のムジナなんです。


【人生の目標】に向かって、日々努力して、誰もが認める【たいした仕事】に就く。社会で活躍する。

そういったものを理想として押し付けられて、息ができなくなる子が多いような気がします。

それは、子ども達だけでなく、言ってる側の大人をも、じわじわ蝕んでいく。

誰かの役に立たないと、生きている意味がない。

誰かに迷惑をかけるなら、生きている価値がない。

それは、自分に掛ける、子ども達に掛ける、呪いのようなもの。

どんなに【立派】な仕事で【活躍】していても、誰しも老いは避けられない。

耳は遠くなり、足腰は弱り、日常に支障をきたせば、
誰しも加齢とともに、障がいを持つ。

誰かに頼らざるを得なくなった時、言うのだろうか?自分に。

存在や生きていることに対して、「たいして役に立たんのに、居る意味、ある?」と。

分かりやすく【役に立つこと】でしか、自分の存在価値を見出せないと、
いつか自分の存在価値を疑うようになる。

生きている【意味】を、【価値】を、疑うようになる。

冗談じゃない!

そんな分かりやすい【意味】ばかりであってたまるか!

ましてや、他人に、他人様の目に、なぜ決められなければいけないのか。

その際たるものが、相模原市のやまゆり園で起きた事件だったと思うのです。


解剖学者の養老孟子先生が、著書やYouTubeなどで興味深いことを仰っています。

それは、子どもや、社会的弱者に関することでした。
詳しくは、
『猫も老人も、役立たずでけっこう』著:養老孟子 P.106~
YouTube
『【養老孟子】あなたたちが生まれてきた意味は●●しかないですよ。子どもが生まれるときのことを考えてみてください』などをご覧ください。


以下、ざっくり、私の理解の範囲です。

子どもというものは、【自然】そのもの。

山の木や、草と同じように、

人間が、考えて、作って、置いたものではない【自然】そのものなんだと。
私は子どもを産みましたが、例えこの先彼らが禿げても、髪の毛一本用意できない。
つまり、わが子であっても、私には【自然】そのものは作れないのです。

ところが、戦後、どんどんどんどん、都市化が進むにつれ、【人工】のものが増えていく。

【自然】と対極にある、意味で満たされた【人工】のものに囲まれていると、
本来【自然】な存在である人間に対しても、意味が必要になってくる。

例えば、川に、大きな石がある。

そのことに、何の意味もいらないのに、

職場のデスクに置いた途端、置く【意味】を必要とする。

そしてそういった、ああすればこうなるといった、【人間の意識】にまみれた世界は、

よく分からないもの、不確定なものを嫌い、避けようとする。

育てたところで、どうなるかわからない【自然】な存在、子ども。

それをリスクとしてしかとらえられないのは、【人工】の【意識】で考えているから。


自分の存在価値に自信を失って、生きていることを辞めるのは人間だけ。

それは、人間には知恵があるから?

そうなんでしょうか?

養老先生の話を聞くと、そもそも、人間だって元々【自然】そのもので、
不確定で、分からないこともあるのを、忘れているだけなのかもしれない。


ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。

それがうまくいくうちは、良いんだろう。

でも、生きていれば、こんなはずじゃなかったと思うことも多々ある。

それは、まさしく、人間が、子どもも大人も含め、本来【自然なもの】ということではないでしょうか。


自分の人生ですら、上手くコントロールも取れず、
自分の人生ですら、【正解】が分からないのに、

誰かの人生を、ああすればこうなるなんて言えない。


自然を見ていると、分かりやすく【役に立つ】ばかりが、全てでないことがよく分かる。

一見、意味の分かりにくいことも、何かの大きなつながりの中で、
影響し合って、何らかの流れになる時がある。

人知れず【役に立つ】意味が、可能性が、内包されているのに、

勝手に貶めるのは、傲慢なのかもしれない。


だから、子ども達よ。怖がらないでほしい。

世の中には、【人の役に立つ】分かりやすい仕事と、そうでない仕事があるだけで、

それが影響し合って、支え合って、網目のように世の中を支えていることを知ってほしい。

中学で、職業一覧で表示される仕事なんか、ありとあらゆる仕事のうちの一部に過ぎない。

だから、その中から、さぁ選べと言われて、ピンと来なくても当たり前なんだということに。

例え、会社員になったとしても、世の中にはこんな仕事もあるのかというくらい、多岐にわたる。

どんな仕事についても、犯罪に加わらない限り、そこに何の貴賤も、差もないし、

まして、役に立つかどうかが、あなたの存在価値にはならないことを、

見極めて欲しいし、知っていてほしいと、思うのです。

人間を機械の部品に例える人もいるけれど、

うまくいえないけれど、目の役目の人、脳の役目の人、手の役目の人、足の役目の人がいるんだと思う。

脳だけでは何もできないように、
手だけでは何もできないように、

そして、そういった目に見えやすい働きだけでなく、

消化酵素や、神経伝達物質のように、
見えにくいけど、無いと困るもののように、

そういった、目立たない仕事をする人がいるんだと、

今は思っています。

だから、役に立つかどうかを含め、【分からない】ことを不安に思いすぎることは
辞めていいんだと思うし、そう信じています。

目立たなくても、大切なのです。

目立たなくても、大切

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