名もなき、支えるものがあってこそ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん



本当は、時期的に月末の構造見学会のお知らせを書くのがベストで、

本当は、SEO対策優先で、家関係のことを書いた方が良くて、

本当は、明るいことを書いた方が良いのを分かってて、

・・・うまく筆が進まず・・・。

5のつく日にブログを書くようにしたため、8/15がその日になりました。

うまく他のことが書けそうにないので、それこそ、ひとりごとのように書きます。

もしよければ、以下お付き合いください。


「日本のためとは 誰のためか」

今手元に、『戦争中の暮しの記録』という、百科事典ほどの厚さの古い本があります。

雑誌『暮しの手帖』の初代(カリスマ!)編集長、花森安治さんを中心に、当時の庶民の様子がまとめられた本で、

先の言葉は、その中にある、姫路市の男性の手記の、見出しでした。


そこで思い出したのが、『チッソは私であった 水俣病の思想(著:緒方正人)という本です。

水俣病の認定申請の最前線で戦ってきたのに、著者の緒方さんは、ある思いに駆られ、認定申請を取り下げました。

その理由を《私の中の加害者》という節で、語っています。
(ざっくりですみません。)

確かに水俣病事件の中では、加害企業はチッソであり、

国や県が産業優先の政策を進めるために、それを擁護してきたのも事実で、

三者とも加害者であることは構造的な事実なんだけれども、

その一方で、チッソや、県や、国にあると思ってきた責任が、
本質的なものなのかという疑問が、ずっとあったのだそうです。

そういった構造的な責任の奥の、人間の責任。

そして、その人間としての責任を、緒方さんは自らにも問うことになります。

「お前はどうなんだ?」と。


チッソと闘い、県と闘い、国と闘ってきた、緒方さん。

そのつもりだったのに、【代表】や【担当者】が変われば、人が変わり、顔が変わる。

つらい思いを分かってほしいのに、受け止める相手はコロコロ変わる。

受け取ってもらえなかった思いは、人間としての責任の問いとして、自らに跳ね返ってくる。


つらいめに遭った人が、責任感がゆえに、その問いに苦しむ。

かたや、のらりくらりと、我関せずと逃げる人間は、気にも留めない。


この理不尽は、なんなんだろう。


国に責任を取らせる、ということは支払われるのは、血税であって、

問題を放置したまま知らん顔を通していた人間は、たいして痛い思いをしない。

しかも税金は、被害者側も払っているのだから、ややこしい。

責任を取ってほしいと思いながら、会社や、県、国という組織にあっては、

一体誰を相手に戦っているのか分からなくなったというようなことだったと思います。
(ざっくりですみません。)


「日本のためとは 誰のためか」

国のためといいながら、その国民が泣いている。

もっと分かりやすい単位で言えば、

「家族のため」といいながら、家族が泣いているのは本質的にどうなのか。

それに似ているように思います。


「人」の「為」と書いて、「偽」になる。

誰かのため、何かのため、ためためためため、偽偽偽偽。

声高に、さも尤もそうに、言わねばならない時、

その足元で、誰かが泣いていないか。

笑えない人間が多数を占めていないか。

トップに立っていると思い込んでいる人間ほど、本当は気を付けなければいけない。

そんなことを気に留め、考えるトップなら、そんな被害は出なかったのかもしれない。

返す返すも、腹が立つのは、緒方さんのように、「自ら省みる」のが善良な人間ばかりで、

何とも思わない、気にしない人間ほど、きれいごとを言いつつ、
逃げ足ばかりが早いのは、なんなんだろう。


『この世界の片隅に』のコミックで、玉音放送を聞いたすずさんが、

「最後のひとりまで闘うんじゃなかったんかね?」と憤るシーンがあります。

それでいえば、「最後のひとり」までいなくなれば、国はなくなる。

その国の「ひと」がいなければ、「国」は成り立たない。

その「ひと」を、駒のようにしか考えないから

何度も間違いを起こす。

気にしてないから。

いざとなれば、のらりくらりと、逃げればいいから。


何かの組織というかたまりは、

一見、個々たる「ひと」の寄せ集めに過ぎない。、

一方で、「ひと」あってこその組織であり、「くに」だとも言える。

つまりは、「日本のためとは 誰のためか」の問いは、
そこに住む「ひと」のためとなる。

そうしたら、大事な人を失って、誰かの大事なものを奪い、壊して、
誰も喜べないことは、

全く「ひと」のためになっていない。

平穏に続く、なにげない日常こそが「ひと」の喜びであるからです。


大きなことは分かりにくいけれど、

何かのためと言いながら、それを構成する「ひと」が弱っていれば、

「くに」なり、組織なり、家庭なりの単位においても、
弱り、衰退する一方でしょう。

不安が大きすぎれば、母乳が止まるように、

いのちの、つながりの、機能が狂う。

「次」を担う、子どもが、いのちが、少なくなる。


それは、木の根の先の、無数の菌類のように、

パッと見には分からない、つながり。


目には見えない、名もなき、無数の支えがなければ、この世は成り立たない。


根っこを、茎を、花を支えているのは、無数の見えないもの。

支えているのは、無数の見えないもの


土が弱れば、根も、茎も、花も弱るのは、組織も同じ。

それは、家庭や、企業、国だって、同じなんだと思います。

のらりくらりと逃げたって、見えないものを軽んじれば、その足元はズブズブだ。

・・・と、名もなきオバちゃんは思うんです。

もう二度と嫌だ!と誓った、終戦の日に。

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