おりこうさん

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん


子ども達が社会人となって、子育ても終わりと言えば、終わりになりました。

今思えば、親になってみて、あらためて気づいたり、考えさせられることが多く。

そういった意味でも、親になったことは、私にとっての大きな学びになったと言えます。


子ども達が小学生のころ、夏休みに実家に帰っていた時のことでした。

わが子は、おだやかな性格だからか、あまりにも図星で遠慮したのか、
さいわい?「ク●ババア!」といわれることもなく育っていました。

かといって、言うことを、ハイハイと聞くわけでもなかったのです。

私自身も、なんとなく「○○しなさ~い‼」とヒステリックに言うのが嫌で、
「○○するってのは、どう?」みたいな感じで言ってきたのですが、

「う~ん!」と言いつつ、・・・しない。

帰省中に、その様子を見た、実家の母から

「子どもにナメられてから!」と言われたことがありました。

・・・そうか、私は、ナメられないよう育てられたのか。

そうすると、色々なことが、点と線でつながっていきました。


子どもは親を敬い、従うこと。


聞こえはいいけれど、なんだ?このモヤっとする感じ。


それは、親が一方的に、植え付けるものなんだろうか。


親に限らず、社会的な上下関係は、かならずある。

親と子。上司と部下。教師と生徒。プロとアマでもそうかもしれない。

先輩なんだから、
経験も知識も豊富なんだから、

敬えよ。従えよ、と。

言うことをきかないと、後でどうなっても知らないよ、と。


う~ん。

【敬い】はともかく、【従う】にモヤっとくる。

隠れた、【従うべき】にモヤモヤする。


今、朝ドラ『虎に翼』であらためて、数十年前に学校で習ったはずの、
日本国憲法にふれることが多くて、考えさせられます。

【従う】ことが、強制ではなく、子ども側からの能動的なものだったら問題ないのです。

常日頃から、その大人の言動を見ていて、

「この人がこう言うんだから、そこには何か大きな理由があるんだろう。」

そう自然に思えて、そうしておこうと言うのなら、問題ない。
でも、【従わない】と、どうなるか分からないから、そうするのは
怯えからであって、

そうせざるを得ない状況に、大人がしてしまっている。

そこに見えない【強制】がある以上、子どもは個人として尊重されていないわけで、

多分、そこにモヤっとくるんだと思うのです。


半世紀以上生きて、ク●ばばあ感も板についてきた私ですが、

モヤっと来る中に、思いがけず、自分の子ども時代のかさぶたを見る。


人生の先輩であろうが、後輩であろうが、

お互いに、一個人として尊重される風通しの良さがあればいいのになと思います。

子どもは未熟に見えるかもしれないけれど、

先輩風を吹かせた大人がいつも正しいとは限らない。

「○○しなさい!」

「なんで?どうして?」

「どうしてもよ‼‼‼‼」

押さえつけ、しまい込んだ言葉が、子どもにモヤモヤとなって残る。


生まれつき、親を嫌う子どもはいない。

少なくとも、物心つくまでは、

どんな未熟な親でも、欠点の多い親でも、

子どもは、全身全霊の愛情で親を慕ってくれる。必要としてくれる。

それが、物心ついてから、

埋めようもない溝に気づいても、遅い。

それは、物心がついた、子どもの心に、
大人が、何かをしでかしたことになる。


「じわじわできた傷は、じわじわ治すしかない」


わが家へやって来た時、猫のハチさんを病院に連れて行った際、
年配の獣医さんから言われた言葉を思い出します。

首から左脇にかけて、輪ゴムが食い込んで抉れ、大きなキズができており、

その手術が難しいとして、言われた言葉でした。


じわじわできた心の傷も、きっとじわじわ時間をかけて直していくしかない。

そして、そのかさぶたを気にして、自分ではがすようなことをしていたら、

いつまでたっても治らないのも同じなのかと思います。


(こころ)に諸(もろもろ)の不浄を思ひて 心に諸(もろもろ)の不浄を想わず

これは、以前書いた嘯吹神社でいただいた社報にあった、
六根清浄の大祓(おおはらい)の一節。

意識に様々なけがれた事を思っても、その事を魂に刻まないように

という注釈がありました。

【けがれ=気が枯れる】なんだとすれば、

元気がない時、疲れている時、余裕がない時ほど、
気を付けないといけないのかなと思います。

それを考えれば、「ナメられないよう」育てねばならないほど、
若かりし頃の母だって、いっぱいいっぱいだったのでしょう。


私は、神経質と言うか、気にしぃな方なので、

そんなこと思うアンタが悪い!と、何度怒られたか分かりません。

でも、ほぼ瞬間的に、思っちゃってるんだから、どうしようもない。

何も思わなかったことにして、何度、自分の感情に蓋をしてきたか。

臭いものには蓋、です。

でも、その何かはブスブスと心で悪臭を放ちかねない。

だから、

そう思っちゃったにしても、魂に刻み込むほど、執着するな。
思ってしまっても、手放して、楽になりなさい。

清々しくありなさい。

・・・と、いうことなのかな。


せめて、自分にできることは、

大人や、上の立場の人に言われて嫌だったこと、
されて嫌だったことは、

子ども達にしないこと。

それくらいしか、ありません。


「なんでお前は、そうなん?」

子どもを失敗作のように思うなら、

それは、親としての私だって、たかが知れている。

子どもは親の成績表じゃない。


あくまで、ヒト対ヒトで、

人間は、自然の一部でもあるんだから、

思いのまま行くことばかりではない。


明るく快活で、勉強も、運動もできて、友だちも多くて・・・。

本当に、手のかからない、お利口さん。

利口とは、賢いや聞き分けが良いのほかに、抜け目がない、狡いの意味もある。

大人の顔色をうかがわせて、お利口さんの良い子が

大人にとっての【都合】の良い子にならないように。

こどもだって
こどもだって
こどもだって
(こどもだって、色々大変なのだ。)

スクスク、イキイキ、

どの子も育っていけますように。

そう願います。

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