ムコリッタ
先般、映画を観に行きました。
荻上直子監督の『川っぺりムコリッタ』という作品です。
『かもめ食堂』や『彼らが本気で編むときは、』などが
有名な監督さん。
中でも私は『トイレット』という作品が大好きで、
その流れで『彼編む』、そして今回の『ムコリッタ』と
続いたのでした。
『トイレット』は【映画 トイレット】で検索すれば
まだ予告編を見ることができます。
バラバラな3兄弟(カナダ人)と
もたいまさこさん扮する、無口な"ばーちゃん"(日本人)。
言葉が通じないながらも、日々暮らす中で
伝わってくる、ばーちゃんの思い。
「ホントウの自分でおやんなさい」と
背中を押してもらえるような作品です。
荻上直子監督の作品は
それぞれ色々な「問題」を抱えながらも、
その問題がいっこうに片付いてないにも関わらず(!)
最後はちょっと笑えて、なぜか晴れ晴れする。
「まぁ、明日もがんばりますか」
そんな気持ちになる映画です。
努力と根性で
主人公が困難に立ち向かって
現状を何とかしていく!
そんな映画も魅力的ではあるのですが
気力も体力もなくなっている時は
美味しい白むすびのような話がしみじみくる。
現状打破やガンバリズムは
下手をすると
「だからお前も見習えよ!」
「だからお前はダメなんだよ!」
と、なりかねない。
誰とも係わらず生きていこうとしていた孤独な山田(松山ケンイチさん)
その山田の隣の部屋に住む、ちょっと図々しい島田(ムロツヨシさん)
おそろいのスーツで墓石を売り歩く溝口親子(父親役:吉岡秀隆さん)
色々ありそうなハイツムコリッタの大家の南(満島ひかりさん)
山田の楽しみの、風呂上がりの冷えた牛乳。
炊き立ての白いご飯。
島田のお手製のお漬物。
溝口親子のすき焼き。
劇中には
荻上直子監督作品ならではの
美味しそうな食べ物がたくさん出てきます。
それが「生きること」だとしたら
相対するように「死ぬこと」も出てくる。
相対する、というのは違うかもしれない。
繋がっている「生」と「死」
その曖昧な間(はざま)をムコリッタという仏教の時間の単位に当てはめてみたとのことです。
刹那(せつな)、多刹那(たせつな)、臘縛(ろうばく)、牟呼栗多(むこりった)。
ムコリッタは、一日を30で割ったもの。1/30日(にち)
元々は荻上直子監督がNHKで
行き場を失った遺骨についての番組を見たことがきっかけの一つだそうで
(劇中にも少しグロテスクなシーンがあります)
見終わった後、自分なりに少々考えてしまいました。
(モヤモヤと嫌な気分にならずにすんだのは映画の雰囲気のせいかもしれません。)
劇中にも川っぺりで暮らすホームレスが
大雨で流されてもニュースにもならないことが出てきます。
それで思い出すのが
『おじさんと河原猫』という太田康介さんの本。
こちらは多摩川の川っぺりの話。
多摩川の河川敷には、そこで暮らすホームレスの人たちを当てにしてか
捨て猫が多いそうで。
大雨の時、ホームレスの高野さんが
みんなが避難しているにも関わらず
猫が心配で川っぺりに戻って行方不明になっていることが
載っていました。
「住民登録」していない=「住民」ではない。
だからニュースにもならない。
勝手に猫を捨てていく無責任などこかの「住人」と
猫の命と、おじさんの命と。
上手く言えないですが
なんだか沸々と腹立たしいような気持ちになるのは
私だけでしょうか。
やれ成功だ。やれ勝者だ。
役に立つだ、立たないだ。
意味があるとか、ないだとか。
世間でいうところの華々しい世界のことが
声高に叫ばれる中で
だから、なんなのかと言いたくなる。
命のことを
分かりもしないで、知りもしないで。
(かくいう私も!)
文才がないからでもありますが、こういうことって
言葉で言えば言うほど
腹の底というか、腑というか、
どんどん何かの根底のような、根本のようなものから、
どんどん離れて行ってしまうような気がします。
ただただ、
ただ生きて、いつかそれが終わりを迎える。
その間の時間を、誰かの、何かの天秤にかけられて
良いだの悪いだのジャッジされる必要があるのか
私には分からないのです。
一人で食べたご飯が美味しい時も、
誰かと食べたご飯が美味しい時も、
分かってもらえず泣いた時も、
分かりようがないけれど、誰かと寄り添っていた時も、
その時、その時間、その積み重ねが
その人の人生と言えるのなら、
その良し悪しなんて、本人が人生のおしまいに
「どう思うか」でしかないような気もするのです。
ぜひとも、映画館で!と言いたいところですが
「そんな暇ない」?
それも、それぞれの時間であり、使い方。
それぞれの「大事」を生きている。
私は知りたいし、心を動かしていたい。