信じるということは
信じるということは、
闇雲に、盲目的に、
誰かの
何かの
言いなりになることなんだろうか。
最近、ちょっと考えてしまいました。
「言いなり」という言葉はともかく、
おっしゃる通り
言われたとおり
それを疑いもしないで行うことが
「信じる」ということなのか。
私にはよく分からないのです。
「こうしないと、ひどいめに遭う。」と脅すことも
「こうしていれば、幸せになれる」と優し気に言うことも
どちらも「言うとおりにしていれば」が前提で
結果や成果が現れない限り
「おまえの努力が足りないからだ」と言われる。
ムチを恐れて、言いなりになることも
アメを欲して、言いなりになることも
それは、本当に「信じている」ということなんだろうか。
大人と子どもに例えれば分かりやすいのですが
罰を恐れて大人の言いなりになる子
愛情や関心、もの欲しさに大人の言いなりになる子
それは、大人を信じているんだろうか。
言うことをきかないと
ひどい目にあわす大人
言うことをきかないと
愛してさえくれない大人
そんな大人の顔色ばかり気にして
弱い立場の子どもは、
いつ、心から安心できるのだろうか。
仮に、状況によらず
【幸せな状態】というものが、
安心していられること、
心やすらかなことだとすれば、
子どもを安心させてやれることが
大人の、さらには何かの、役割なのかもしれない。
どんなにあなたのことを信じているか
どんなにあなたのことを愛しているか
それを饒舌に語れる人間が
それを語らない人間より
本当に「信じている」と言えるのか
私にはよく分からないのです。
以前、カメラ片手に
朝日が昇るころ、風景写真を撮りに行ったことがありました。
待ち構えていると、
東の空がだんだん明るくなってきて
目の前の田んぼや、山々を
お日様の光が、まんべんなく照らしていきます。
カメラを構える私にも
コスモスの花々にも
雑草にも
土にも
同じように陽が当たっていく。
「あぁ、分け隔てなくって言うのはこういうことなんだ。
いじけて陰に隠れてさえなければ
どんなものにも
こんな私にも
同じように光は当たるんだ。」
と、妙に納得した瞬間でした。
とはいえ、俗世にまみれて
日々不平不満ばかりの私ですので
すぐ忘れてしまうのですが
「信じる」ということの本当は
明日も日が昇ることを
疑いもしないことに似ているんじゃないか。
明日お金が無くなる心配はしても、
なぜか
明日空気が無くなる心配はしない。
それは、
明日も同じように空気があって
同じように生きていることを
疑っていないから。
信じているから。
少なくとも
ムチを恐れず
アメに振り回されず
自分の心を安心させる術を
私なりに
少しでも身に付けたいと思います。
偽物は脅す
偽物は焦らせる
心配に似た
親切に似た
「あなたのため」という名の
【支配】もあるかもしれない。
どんなことにも。
どんなものにも。
お互いに。
信じていれば簡単なんです。
なぜなら自分で考えずにすむから。
そう言ったのは誰だったっけ・・・。