傷つきやすいことは
木は傷つく。とりわけ、スギは。
それでもあえて使うのは
それ以上に大きな魅力がスギにあるからなのですが
そこは、ぜひ5月末の構造見学会で永家さんに質問してみてください。
(※ちなみに、傷がついた!と思ったら、濡れティッシュを傷口に置くとか、応急処置あり。)
その永家家(←こう書くと変ですね(笑)「ナガイエ・ケ」と読んでください。)には
ヒノキの床とスギの床が隣り合わせに貼ってある箇所があります。
もし、その床の上に立つ機会があれば
その理由の一つが分かると思います。
ヒノキは頑丈そうですが、足の裏を通した感覚は
硬く、冷たい。
同じ無垢の木ですが、スギの方が温かく優しく感じる。
確かに、傷はつかないにこしたことはない。
硬くて頑丈なら、いつまでも美しい見た目が期待できるでしょう。
とは言え、少しの傷もつかない頑丈なものは
下手すると、こちらが痛いのです。
鉄板の上と、柔らかい草原の上。
転んだ時痛そうなのは、頑丈な方です。
鉄板の上でリラックスは難しいですが、
草原の上は、心地よい。
傷がつきやすいということは、裏を返せば
【相手を傷つけにくい】ともいえる。
私たちは直に床に触れる機会は少なめですが、
ハイハイの赤ちゃんだって、
硬く冷たいものよりは、木の方がきっとお好みでしょう。
鉄板より、プレイングマットより、スギの手触りの方が
ずっと触れていたい心地よさです。
人間だと、傷つきやすい人が
必ずしも人を傷つけないわけではないけれど
傷を含め、負ってきた経験が
その人を「その人」にしている。
そういうことってあるんじゃないか。
無垢の木の家が、唯一無二だというのは
そういうことでもあるんじゃないか。
木も人も、同じようでいて同じものなどこの世にない。
ましてや、生まれ育った環境、
傷を含めての経験、そして、それから後のこと。
傷を含め、家としての歴史が
その家を「その家」らしくしていく。
同じ無垢の木の家を建てたとしても、
サトウさんは、サトウさんらしい「家」に、
ヤマダさんは、ヤマダさんらしい「家」になっていく。
傷を負ったことが、人の価値でも
家の価値でもないけれど、
傷を「味わい」にできるのは、
生き続けているからだともいえる。
私の家は、私に似合う家になっていく。
あなたの家は、あなたに似合う家になっていく。
それは、きっと自然体で無理のない、
人の在りよう、家の在りようとも
言えると思います。
少なくとも私は、
いつまでも新築かと思うような、傷つかない(らしい)「可愛らしい家」を建てて、
それに似合う「いつまでも若く可愛い私」で居続けることは
無理かなぁ(^-^;
「この家、なんかすごく似合うね。
あなたらしいね。」
そう言われたら、私などは
ちょっと嬉しい。