ピエタ

大分・自然素材の家。もくせい工舎・ことりのかあさん

読書会で『苦海浄土』を紹介されたのを皮切りに、
なんだか個人的に、石牟礼道子三昧となった今年。

その流れで、ジョニー・デップ製作・主演の映画
「MINAMATA-ミナマタ-」を観に行きました。

友人に誘われて観た井上弘久氏の
朗読劇『椿の海の記(著|石牟礼道子)』も、きっかけの一つ。

公害けしからん!はもちろんのこと
それ以上に、
人のいとなみや、自然について
考えさせられることが、とても多かったのです。


『椿の海の記』は、公害が起こる前の水俣が舞台。

4歳の「みっちん(幼少期の石牟礼道子)」の目を通して
どこまでも豊饒な水俣の自然と、
その恵みに生かされて生きる
人々の様子が描かれます。

それまで、私にとって「水俣」は、
【公害の起きた場所】でした。

元来の猫好きなので
猫が踊り狂うように死んだりする映像もショックでしたし、

同じように人々が、痙攣したり、
のたうちまわって苦しむ姿は、強烈で

【被害者としての水俣】を
印象として、強く持っていたんだと思います。

でも、違ったんです。

被害者であることだけが、水俣の全てではなかった。

あの公害が起きる前の、水俣が
どんなに豊饒な世界だったか。

それを教えてくれたのが石牟礼さんの『椿の海の記』でした。

「やまももの木に登るときゃ、山の神さんに、
いただき申しやすちゅうて、ことわって登ろうぞ。」

小さな「みっちん」に、父・亀太郎が何度も言い聞かせます。


自然は人間だけのものではなく
山の「あのひと」たちのものでもあり、
神様からの「恵み」である。

だから、断りばゆうて
分けてもらう。

自然の、恵みにおすそ分けをもらって
生かされている人間。

・・・うわ~。

努力と根性で、右肩上がりに上がることばかりが
偉いと思い込んでると、

【思い上がり】も、右肩上がりなのかも知れません。


また、登場人物に考えさせられることも多かった。

ご近所の末広の女郎さんたち、
岬の火葬場の隠亡(おんぼう)の岩殿(いわどん)

世間でいうところの、けっして立場の強くない人々に
どこまでも目線の優しい
みっちんの両親。

そして、盲目で狂女の
祖母「おもかさま」。

石牟礼道子という人が描く、
映画を見ているような、繊細な文章の世界に
すっかり参ってしまったのです。


今回の映画も、ユージン・スミスが撮った
【人の営み】が見てみたかったのが一番の理由です。


ネタばれするつもりはないので
詳しくは書きませんが

実際は、ハリウッド的勧善懲悪とはいかない
複雑な事情もあったのだろうなと思います。

それでも、絶対「しかたないよね」ではすまされない。


國村準さん演じるチッソ社長が、ppmの話をするシーンが印象的でした。

ごくわずかなら、無いに等しいと。



有毒でも、ごくわずかなら無毒か。

騒いでいても、ごくわずかな人間なら問題ないか。


「チッソは私であった」の著者・緒方正人さんではないですが

チッソは私。
私は、チッソになりうるって
どこかで思っていないと
間違えてしまうような気がしました。



映画の中で、胎児性水俣病のアキコちゃんを
お母さんがお風呂に入れるシーンがあります。

ユージン・スミスの「入浴する智子と母」という作品が元ですが、

もう、なんだか心を揺さぶられて
不敷布のマスクが
ぐしょぐしょになって、エライことになりました。

上手く言えませんが、

私の母は、同じ立場なら
私をこんな風に愛おしそうにお風呂に入れてくれただろうか。

同じ立場なら、
私は、我が子をこんな風にできただろうか。

その姿が、ピエタのようで

エンドロールで流れる坂本龍一さんの音楽が
強くて、きれいで。

きれいごとじゃすまない一面の、
それでも
絶対に人が失ってはいけない核心に触れたようで

本当に、何の言葉でも埋まらないのですが、

きれいごとじゃないのに、
何とも言えない、絶対的なものを見せられた。

そんな感じでした。


それにしても、ジョニー・デップ。

映画に詳しくないとはいえ、
私が知っているジョニデは

ハサミつけて「白塗り」してたり、
チョコレート工場で「白塗り」してたり、
海賊やって「白塗り?」してたりだったので

あまりにも違って、というか
本当にユージン・スミスはこんな人だったのではと
そう思えるくらい違和感がなくて。

そちらも意外や意外でした。

例によって長文失礼しました。

あ~、でもまだ話したいこといっぱいある~。



折を見て、また書きたいと思います。


明日は、10/1。映画は、ファーストデイ。

PageTop