私を決めないで
私を決めないで
一本の線路を走る電車のように
まっすぐな橋のように
決めないでください私は水
方向を決めずに広がる水
海と同じ、どこまでも広がる水
わが子の卒業式の日、
式を終え、教室に戻ると
箱の中にプリントの切れはしが。
そこには、国語の授業で
詩のアレンジに取り組んだ
子ども達の作品がありました。
「お子さんの分をご自由にお持ちください。」
わが子がアレンジして書いたのが
上の詩だったのです。
親バカですが、
なんだか妙に心に刺さってしまった。
元は
「私を束ねないで」という新川和江さんの詩。
国語の教科書に載っていた、とのことで
今、捨てようと束ねていたものから
引っ張り出してきて、読んでみました。
(「私を束ねないで」だけに?)
オリジナルの詩も、もちろん名作なのです。
特に、
私を名付けないでに続くくだりは
娘であったり、妻であったり、母でもあるからこそ
身に染みて分かるフレーズです。
あぁ~、でもこれ。
絶対中学の頃の私じゃ分からない~。
捨てるはずの教科書。
森鴎外の『高瀬舟』も載っていました。
私の頃、習ったのかしら。
育った県は違うのですが
当然「読むべき」名作リストに載っているようなものです。
ところが、習った記憶も吹っ飛び、
読んでもないはず。
ところが、今読むと
めちゃめちゃ面白いんですね。
あぁ、でもやっぱり中学の私じゃ何のことか
分からなかったかもしれない。
「足るを知る」ことが
どうも目の前のお金や物の量や質でないこと。
満たされていても
餓鬼のように
まだ不安や疑念がムクムクと湧き上がって
自分を苦しめてしまうこと。
高瀬舟に乗った弟殺しの罪人であるはずの青年が
そのキリがない「もっともっと」の欲が
まるでなく、心から満足し
安心していること。
今さらと笑われそうですが
おばちゃんになって
「森鴎外、すげー!」と叫んで
子どもに笑われておる次第です。
分かる時期、タイミングって
人によるのかもしれませんね。
私は、今でした。
少なくとも、
私を決めないで
私は水
方向を決めずに広がる水
海と同じ、どこまでも広がる水
そう書いた我が子の気持ちは
親として心に刻もうと思います。
私も、
「あんたみたいなんが
そんなんやっても、
どうせ無理」
そんな親の言葉はつらい。
「あんたのために
心配して言ってやりよるんよ」
確かにそうかもしれない。
でも、この言葉を聴いて
元気も勇気も出ない。
だから
わが子には言わないように。
うっかり言いそうになっても
それが毒だと気付けるように。
そう心しておこうと思いました。
私に似て
少々独特のところがある子ですが
アレンジして
この詩を書いてくれて良かった。
母は、君がそういうことに
気付く子になってくれて嬉しい。
そう思う旅立ちの日でした。