40g
私事ですが、セキセイインコのQ太郎さん(♀)が
今年の3月、ちょうど
桜のさく頃、お空組になりました。
(糸井重里さんの【ほぼ日】の「ドコノコ」風に言うと。
↑毎日糸井さんが書く『今日のダーリン』や色々な企画が楽しい。
その中に、亡くなったペットをこう呼んでたのです。)
ちょっと、この話を先にしとかないと
次回と話が続かないので
良かったらお付き合いください。
Q太郎は、容体が急変して
病院に運ぶ途中、大好きだった
上の子の手のひらの上で
息を引き取りました。
8歳くらいだったので、
人間でいうと60代くらい。
もっと、ずっと一緒にいられるものだと
思い込んでいたので、
やっぱりちょっと、早すぎる気がします。
小鳥や小動物など、捕食されやすい動物は
「ギリギリまで弱っているところを見せない」と言います。
今思えば、いつもの春先と違う点はあったかと思いますが、
それは「死」という結果を見たからであって
何事もなければ
いつもと違うことにすら気づかないままだったかもしれません。
40g。
セキセイインコにしては、ぽっちゃりなのですが
それでも、たかだか40g。
それでも、すごい存在感の40gでした。
在宅で仕事をしている私は、一日のほとんどを
Q太郎といっしょにいました。
「Q~」と呼べば
「ムカシムカシ、Qタロサン!」と答えてくれました。
一日に何回、家族に「かわいいね」と言われたか
わかりません。
Qに声をかけながら、
私たち家族は、どんなに救われていたのかも
わかりません。
優しく声をかけることが、何故こちらにも良い影響があるかは
以前の記事を良かったらどうぞ→こちら
「あまり悲しむと、成仏できんよ」
子どものころ言われたその言葉を、
ひねくれものの大人になった私は、
あまり信用してません。
(例えホントウのことでも、なにか腑に落ちないのです)
それは、どうしようもないことに悲しみ続けることへの
慰めや優しさであったかもしれないし、
泣かれることへのめんどくささだったのかもしれない。
いつまでも、過去をくよくよ後悔しても
たしかに何も変わらないのです。
でも、大切にしていた存在が
「会えなくなって、悲しい」という気持ちは
今、そう思うなら
素直に感じていいと思うのです。
誰かの決めた「こうするべき」「こうした方が美しい」に縛られて
自分の素直な「泣きたい」感情に蓋をしてしまうことが
長い目で見た時に、そんなに良いとは思えない。
泣きたいときは、泣けるなら、泣いて良い。
「こうするのべき」に縛られて
だんだん、本当の自分は
何をどう思って、どうしたいのか分からなくなるからです。
いなくなったことを、
会えなくなったことを、
こんなにも寂しく思う、Q太郎さんとの出会いは、
違う見方をすれば、
別れがこんなにもつらいほどの出会いでした。
ありがとうね、Q太郎さん。
たくさん可愛いセキセイインコはいるけど、
代わりはやっぱりいなくて、
「あの」Q太郎に会いたいのです。
また会いたい。
そんな出会いは、とても
しあわせな出会いだったと思います。
「おまえらなんか、何の役にも立たん!」
の、先生ではありませんが
世の中の、役に立つことが
存在意義の全てなら
役に立たん=存在の価値なし
になってしまう。
でも、私たち家族は
Q太郎さんを何かの便利や
「役に立つ」とかで飼ったわけではありませんでした。
でも、いなくなると
さびしいのです。
私は、自分の子どもたちが
何らかの形で
社会の役には立ってほしいと思います。
その一方で、どんなに彼らが有能で「役に立つ人」になったとしても
息子たちが、その場からいなくなって、
ホッとされるような人間にはなってほしくないです。
勉強やスポーツで大活躍!
何かの賞をもらって新聞に掲載!
・・・なんていう華々しい話とは無縁の息子たちですが
わが子は、そこにいるだけで
なんともホンワカした雰囲気の人間になりつつあります。
きっと、オジサンになっても
言い返せもしない立場の人間に向かって
「役に立たん!」と罵倒したりはしないと思います。
役に立つ、立たんが全てではない。
そう、教えてくれたのは
罵倒していた先生であり
それに耐えていた子どもたちであり、
Q太郎さんの存在でもありました。
私が、この世からいなくなったとき、
もしくは、その「場」からいなくなったとき、
「便利だったのに、困ったな」と言われるより、
居なくなることが
もう会えなくなることが
少しでも「さびしい」と思ってもらえる。
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ・・・と、思います。
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