畳の上で。
「あいつは、畳の上で死ねないぞ」
・・・なんて言葉があります。
とはいえ、昨今、
「実は、私の家、畳ない」
なんてお家も多くなってきているように思います。
ほとんどフローリングで、コーナー的に
畳スペースがあるとか。
古い昔のお家のように、家のほとんど部屋が畳!
ということも、少なくなってきました。
陽だまりに、畳とおばあちゃんと猫。
なんとも絵になりますが
そのおばあちゃんにとって、畳での
立ったり座ったりが大変なので、
フローリングに、椅子。のスタイルが多くなっています。
そういえば、以前読んだ、村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』の本の中に
日本家屋のことが載っていて、意外だったのを思い出します。
日本の民家はいいなと思うことがある。
正座をしても寝っ転がっても差支えがない。
・・・(略)・・・
日本の住まいは腰から下の空間がとても豊かだと思える。
座面からしつらえが始まり空間が広がっていく。
しかし近年の日本の住まいはその豊かさを失いつつある。
欧米の住まいと同じようにダイニングテーブルの高さからしつらえが始まり腰から下の空間は忘れ去られている。
椅子に腰かけて生活することが前提なのだ。
僕が勤めていた老人ホームも同様だった。腰かけている高さから見おろすと床で座り込んだり、寝転がっているお年寄りたちが非人間的に見えた。まして床を這うことなど許されない。そこは靴を履いて歩くところなのだ。
二本足で立ち、歩くことが人間としての証だが、年をとればそれもままならぬ。トメさんのように人の助けは借りぬと決め込めば床をはうこともある。でもそれは自分らしく生きるための選択なのだ。その選択を許すのが従来の日本家屋であるように思う。
村瀬孝生 著『「第2宅老所 よりあい」から ぼけてもいいよ』より抜粋
立ったり座ったりが楽だったり
介護の現場では車いすもあるので、
フローリングや塩ビのシートは最適ではあるでしょうが、
使い勝手とは別の面で、私などが、思いもしなかった
日本家屋(畳)の良さでした。
歩くのが困難になり、それでも「自分で動きたくて」
這うようにしたり、寝転がったり。
フローリングは、それを「異」なものに見せてしまう。
畳なら、それを「異」に見せない懐の大きさがある。
なるほど。
立ったり、座ったりの機能的な事情もありますが
そういった意味でも
畳、やっぱり悪くないなと思います。
もくせい工舎でも、和紙畳が増えてます。
その一方で
色あせや毛羽立ちがあったにしても、
あのイ草の香りは捨てがたいですものね!畳は!
死に場所や、死に方はともかく、
「生まれれば」、「死んでいく」。
浄、不浄ではなく
息をするのと同じくらい、「自然」で
当たり前なこと。
だから、死っていう言葉を、忌み嫌わないでどんどん書きます。
調べれば、「畳の上で死ぬ」・・・というのは
(出先の)事故や変死ではなく
【当たり前】に(家で)死ぬこと。
その反対は、・・・「野垂れ死ぬ」?
「野」や「野原」は好きなので、
ぽかぽか良いお天気で、そよそよ風に吹かれて
タンポポの咲いてる「野」で死ぬのも、悪くないかな?
なんてのん気に思ってしまう。
そしたら「野垂れ」は当て字で
「倒れて、這うようにして、死ぬ」ことみたい。
・・・それは、あまり穏やかではないですよね。
そう、きっと私たちは
「穏やかでない」死を、できれば避けたいのだ。
そういった意味では、この命が終わる場所が
畳の上だろうが、病院だろうが、
本当に野であろうが、
「穏やかに」死ねたら、万々歳なのかな?
「穏やかに」・・・心も、体も。
色々心配しながら、苦悩しながら亡くなるよりは、
嫌なことや、今までのつらいことを忘れるように
心穏やかに死ぬのなら、
物忘れといった「老化」も穏やかな死を迎えるための
麻酔のように思えてしまいます。
とはいえ、忘れてしまうことは
【失う痛み】でもあるのでしょうが。
穏やかに、死にたい。
人がうらやむ名声や、富や、人に囲まれても、
その最期が、心身「穏やかでない」のはやっぱり辛そうです。
「色々あったけど、なかなか面白かったよ~」って言って死ねるなら、
そこが、畳だろうが、病院だろうが、野であろうが、構わない。
大勢に囲まれてようが、独りであろうが、
「穏やか」であれば、構わない。
少なくとも、私はそう思います。
畳の上で、猫とごろごろ寝転んで
「日差しが春っぽくなってきたな~」と思いながら
独り、眠るように往生なんて、なかなか悪くない。
「死ぬ」「死ぬ」連発でしたが、
畳は、やっぱり良いもんだなぁ・・・っていう、お話。
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