職人

「叱る」と「怒る」は違う。

「怒る」が「罵倒」なら、なおのこと。

そこに信頼関係はない。

「お前らみたいなのは、将来何の役にもたてんのじゃ!」

そう「罵倒」する側にも、その「罵倒」に耐える子供たちにも

その間に、「温かい」ものは何もない。

勢いのあまり、何が本当は言いたいのか

ちっとも伝わらない。


「俺の仕事は、育てる職人だと思うとる」

私も、教職に就く人は「教え、育てる職人」だと考えたことがあった。

偶然にも、その罵倒する先生と同じことを考えていたのです(・ω・;)



「木も人も 癖があるから面白い」

宮大工・菊池恭二氏の言葉です。

「法隆寺の鬼」と謳われた西岡常一氏に師事し

「教えない」ことで人を育てる、職人さんです(・ω・)



育った場所によって木には癖が生じる。

斜面の木は風をうけ、幹は捩れてしまう。

木は必死にもどろうとするわけで

(その結果)ひねくれた木ほど目が詰まっていて

強度に優れている。だから田舎づくりの家では

曲がった木を梁や桁に使っていたのだ。



ワタシは教育の専門家でも、大工さんでもない。

でも、

木が好きで好きで仕事をしている職人さんと、

ただ「労働」としている職人さんは

「木の活かし方」が違う。


扱いづらいからと、「ダメな木」「使えない木」「役にたたない木」と

捨てたりしない。

自然のかけがえなさを分かっていればこそ

「どうにか自分の知恵と技術で活かそう」と模索する。



その「職」に就く「人」は「職人」さんだ。



でも、その手から生み出し、その手が育てるものが

心から好きか、かけがえないかで

全く違ってくる。



「扱いにくい木」は廃材にもできるかもしれない。

でも人間は?



自然が好きか?

木が好きか?

人が好きか?



不器用でも、模索し続け、慈しむ。

その「職人」の手から育つものは

やっぱり「温かい」のだ。

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