いのちをいただくんだもんな。
あさりの砂抜き、皆さんはどうしていますか?
以前誰かに、
「フツウは塩水でするんだけど
真水の方が苦しくてよく砂を出す」と聞きました(・ω・)
それが正しいかどうかは分かりませんが
ワタシは断然塩水派!
同じ砂抜きなら苦しそうより、ちょっと罪悪感が減りそうかも・・・( ̄▽ ̄;)
どのみち、火にかけて食べちゃうんだけど・・・(^▽^;)
それに、あさりがにゅ~っと口みたいなものを伸ばして
ピュッ!と水を吹きだす様子が楽しくて
「うん。よしよし(*^_^*)気持ちいいかい?」と
少しの間だけあさりを飼っているような気持になるからです( ̄▽ ̄)
そんなかわいいあさりも、火にかけねばなりません( ̄▽ ̄;)
あさりのお味噌汁が大好物の、息子のために買ってきたんです。
・・・火にかけた途端、あさりは【生きて命あるもの】から
【他の命を支える食べ物】になります。
ありがとう、あさり。お味噌汁、美味しかったです(TωT)
『いのちをいただく』という絵本がありますが
いつもいつも気にしてはいなくても
私たちの口に入るものは、【命】
生きて、風にそよぎ、種子を残し、枯れて、土に還るはずだったもの。
生きて、子を育て、なでられれば喜び、おいしそうにエサを食む動物だったもの。
「スーパーのパックに綺麗につめられたものからは
命は想像できないけど、
そのお肉にも、生き生きとした命の営みがあった」
その命を、自分たちがそうする代わりに「解く」仕事をする
食肉加工センターの人のお話しでした(・ω・)
この頃、毎週のように
華奢で、おしゃれな若い女性が、
競い合うように大食いを披露しているのを見ると
ちょっと切なくなるのは私だけでしょうか?
本当に、そんなに食べないと、身が持たんの?( ̄▽ ̄;)
そうじゃないなら、目の前で命が解かれながらだったら
たぶんきっと、そこまで食べようと思わないよ?(´-ω-`;)
大食いを競うのも、それを面白がるのも
そんなに愉快な話じゃないなぁ~と、思う今日この頃であります(´・ω・`;)
とは言え、食べることは好きなのですが・・・。
熊本の田舎で、ご両親が牛を飼っていた親友と
以前『いのちをいただく』の話をしていて
彼女のお母さんが
「仔牛が連れていかれるって、母牛は分かるもんだから
それは悲しそうに鳴くんだよ。
牛でも、そうなのにねぇ。」と言っていたと聞きました。
また彼女のお父さんも
「肉がカタいじゃの、マズいじゃの贅沢言わんで
ありがたく食べろ」と言っていたとのこと。
高級だろうが、こだわりだろうが、なんだろうが
その生きていた【命】に貴賤はなくて
そんな【命】が【食べ物】に変わることを、
日々痛感してたからこその言葉なのかもしれません。
「かわいそうだから、肉食べない」といっても
動物の命はかわいそうで
魚や植物はいいの?ってことにもなりそうです(・ω・)
自分にできることは、せめて時々はそれを思い返して
口に入った命の分も
子供はもちろん、知識や経験や
人としての何かを育て、つなげていくことかもしれないです(´・ω・`)
十分、出来ているとはとても思えませんが
時々、思い出したい。そう思っております。
・・・合掌!
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